048.追走激
「自称探偵ジェイド」


   048.追走激



 案外しつこいな。

 ちらりと視線を走らせて、胸中で呟く。その先には、まっすぐな通りを、こちらを時折見つめながらも全速力でかけている人影があった。街灯もなく、暗い通りをほのかに映し出すのはただ、丸い大きな月明かりだけだ。
 満ちる月を背に、彼は屋根を伝い走る。
 その長身を仰ぎながら走りつづける少年を玩ぶかのように。



「ま、待て……よ、くそっ……」
 息を切らしながら吐く声が、閑静なビル街に木霊した。声を発したせいで呼吸が乱れたのか、わずかに体勢が揺らぎ、足をもつれさせる。
「ニャー!!」
「わ、悪い、タロウ。踏むつもりじゃ、なかったん、だって……」
 足元を一緒に走っていた相棒の足を、どうやら踏んでしまったらしい。少年の詫びる声と、本当に痛かったらしい猫の鳴き声。それでも歩みは止まっていないのだから、たいしたものだ。
 ふっと、口元に笑みが浮かぶ。仮面を押さえ、スピードを殺さないように前に向き直る。声を出して笑いたいのをこらえて、彼は勢いをつけて次の屋根へと跳んだ。
 バサっと、まるで翼のように広がるマント。
 その音が聞こえたのか、相棒との言い争いから少年は顔を上げ、上空を仰ぐ。
 そうだ。こんなことをしている場合ではない──少年は呟いた。
「……畜生、鳥みたいに跳びやがって」
 軽い身のこなしで闇を掛ける怪盗アレン。ここメンブレン市では知らないものはモグリだと言われるほど、名の知れた怪盗だ。どんな広告屋も、どんな記事者も、そして警察ですら、彼の正体を知らない。憶測だけは誰もかれもが囁くけれど、それは噂の域を出ないもので、都市全体に広まるほどの勢いはない。
 誰も知らない。
 けれど、誰もが知っている。
 怪盗アレンは、そんな存在であった。
 謎にはロマンがつきもので、そのロマンを求めて謎に挑む者は少なからず存在し、この少年もまたその一人であった。
 少年──ジェイドは、これまでにも幾度かアレンの犯行現場に出くわしたことがある凄腕の探偵(自称)だ。今日も今日とて、こうしてアレンに出くわしたが、実はこうして追走するのは初めてであった。それまではといえば、いつもいつも犯行直前に煙にまかれ、しっぽを掴むまでには至らなかった。探偵としては、屈辱である。
 しかし、今日はついている。
 たまたま帰宅が遅くなり、遠回りをして家路を急いでいたところに彼に出くわすだなんて。神のお導きだろうか──いや、違う。神ではない。きっと「アタック紳士」の導きだ。
 背負ったカバンの中では、さっき購入したばかりの新作「アタック紳士とからくり屋敷の怪人(増補版)」が、歩調に合わせて重そうに揺れている。角の部分が時折背中に当たって苦痛を伴うが、逮捕という大事の前では些細なことに過ぎない。だが──
(……くそ、なんであんなに速いんだよっ)
 今日はせっかくこうして追いかけることが叶ったというのに、これでは捕まえるどころの話ではない。悔しさに唇を噛んだ少年の足元から、鳴き声とともにふわりと小さな影が浮かんだ。
「よし、タロウ。おまえは上空から怪盗アレンをあおるんだ」
「ニャーオ」
 任せておけといったのかどうか、このしゃべらない翼猫のタロウの心中はわからないけれど、タロウは数メートル先を逃げる怪盗のマントを目指して空を駆けていく。
「よし、このまま進めば一旦建物は途切れる。奴が屋上と屋根を使って逃げているかぎり、必ずそこで立ち止まるはずだ」
 俄然やる気が湧いてきた。
 逃げ場なく立ち止まる怪盗に声をかける自分の姿を想像してみる。

「さあ、どうするかい? 怪盗アレン。大人しく投降した方が身のためだぞ」

 顔が笑う。
 これぞ探偵の本懐だ。



 ぶふっ……と、笑いを堪えたけど、結局漏れてしまった。そんな音がして、彼は再び見下ろした。さっきと変わらぬ距離と位置を保った場所にあの少年はいて、そしてなにやらひどく嬉しそうな顔をしている。さっきの奇妙な音は、きっと彼だろう。
「……あの顔つき、また妄想でもしてんじゃねえのか?」半分諦め、そしてもう半分で面白がり、そうして同意を求めた。「なあ、タロウ。おまえのご主人さんのこったから、栄光と脚光を浴びた気になってんだろうな」
「ニャ」
 かもね。と、肩をすくめたような仕草を、翼猫はした。
 ジェイドに言われ、怪盗のもとまで辿りついた件の翼猫は、アレンを煽るどころかむしろ談笑している。下にまでは届かない程度の声量での会話であるから、ジェイドが彼とタロウが仲睦まじく会話していることには気づくまい。
(万が一聞こえてたとしても、意味はわかんねーか)
 思い直して軽く笑う。
 己が使うこの言葉は、この世界においては意味不明の呟きにしか聞こえないだろう。外国語であれば習得は可能かもしれないけれど、「世界」からして違っていれば、話は別だ。
「さて、そろそろフィニッシュかな」
 前方には闇がある。
 ビルの波は途切れ、ぽっかりと空間だけが開ける。きっとあの探偵はこの場所のことを想定して笑っているに違いない。
 飛び移る場所がないのだから、もう立ち止まるしかない。
 そう思っているのだろう。
「……甘いんだよなー。固定観念を捨てなきゃ捕まえられないって、いつも言ってやってんのに」
 懐から取り出した卓球ボールほどの大きさのものを、コンクリート状の地に叩きつける。と、同時に彼の周り一帯が煙に包まれた。



「――な、なんだよあれ」
 急に煙が立った。アレンの姿は見えなくなる。
 自虐行為だろうか? といぶかしんだが、風が煙を払うとともに驚きの顔に変わる。そこにはもう誰の姿もなかったのだ。
 ジェイドは慌ててアレンが消えたビルの屋上へと走る。辿りついたその場にいたのは、己の相棒・タロウだけ。
「一体どこに消えたんだよ、なあタロウ」
「ニャー」
「……わかんねーよ」

 さっきよりも近くに感じる満月が、ジェイドの影を濃く映す。ふと、その影に新たな別の影が重なる。長い、人影。
 アレンか!?
 弾かれたように振り返り、そしてジェイドは肩を落とした。
「どうしたんだい? 探偵クン」
「いえ、ちょっと……。それより、どうしたんですか? 何故レージさんがこんなところに?」
「月夜の散歩」
「風流ですね」
 そう言うと、顔見知りの青年は微笑んだ。
「それに加えて、まあなにか事件でもあれば――ってところかな」
「事件……ですか」
「なにか知ってるのかい? また怪盗アレンでも出没したとか?」
「――お察しの通りです。追いかけて、それで……」
「へー。すごいじゃないか。彼を追うだなんて、誰しも出来ることじゃないと思うよ」
 驚いたように言われ、探偵の自尊心がピクリと動く。けれど、そんな程度のことを自慢していてはいけないだろう。
「実は、ですね、レージさん。これを記事にするかどうかは記事者であるレージさんの判断にお任せしますが――」

 そう前置きをして、怪盗アレンとの攻防を熱く語りはじめる、青春まっさかりの十七歳の少年を面白そうに見ながら、青年・レイジは、そっと口元を手で覆い笑みをこらえる。そんな青年の肩辺りに飛来した翼猫は、青年の耳元で鳴く。
「ニャオ」
「まあ、功労賞ってとこだよ」
 ポケットに忍ばせた煙玉を片手で転がしながら、
 どこかで見たような笑みで、彼は微笑んだ。